2013年4月7日日曜日

連載「ゲーマーのための読書案内」第22回:『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』_1

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(以下便宜上,『アンドロ羊』)は,アメリカの異色SF作家,フィリップ?K?ディック(以下,ディック)が書いた,SF界におけるマイルストーンの一つである,ドラゴンクエスト10 RMT。ことSFというジャンルは,マイルストーンやらターニングポイントやらパイオニアが宿命的に多い(割にマスターピースは少ない気がするが,きっと気のせい)が,なかでも『アンドロ羊』は非常に特異な位置に立つ。それは,「映画と最も幸せな結婚をした文学作品」であるということだ。  『アンドロ羊』を下敷きにした映画「ブレードランナー」は「エイリアン」と並ぶリドリー?スコット監督の代表作となり,SF映画における不滅かつカルトな金字塔の一つとなった。実際,世間に理解されて以降「ブレードランナー」の表現手法は,サイバーパンク,ひいてはSF的近未来を映像化するに当たってのデファクト?スタンダードとなりおおせた。  極めて多くの近未来SF作品がブレードランナー的映像を作っているが,それらがいちいちブレードランナー的といわれないのは,「ブレードランナー」の影響を受けていない作品がほとんど存在しないからだ。「ブレードランナー」,そして必然的に『アンドロ羊』は古典や原典を越えて,空気のような存在となったのだ。  ところでその『アンドロ羊』と「ブレードランナー」だが,話の筋は驚くくらい完全に別モノである。舞台こそ近未来の地球で,人間社会に潜んでいるアンドロイドを狩り出す刑事デッカードが,任務遂行のため七転八倒するというメイン?ギミックは共通しているが,デッカードの物語における立場,周辺の人間関係,社会的背景,生活に密着したテクノロジーといったものは,大きく違っている。  例えば『アンドロ羊』においては,そのタイトルどおり電気羊/electric sheep(余談だがこの語は,SF史に残る名訳だと思う)に代表される,ドラクエ10 RMT,「ロボット細工の動物」が非常に大きな意味を持つギミックとして利用されている。SeamanやAIBO,ファービーやNintendogsなど,電気ペットに事欠かない現代を顧みるに,ディックが1968年に描いたビジョンの鮮烈さに驚かされるが,映画には電気ペットが明示的に描かれるシーンはない。  同様に,『アンドロ羊』で作品の中枢に位置するマーター教という宗教に至っては,映画には一瞬たりとも姿を現すことはない。『アンドロ羊』のクライマックスでは,マーター教というバックグラウンドに加えて,デッカードが丘を登るという極めて象徴的なシーンがあるが,「ブレードランナー」のどこを見てもそんな丘はないのだ
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